東順子 MY STORY

東 順子 MY STORY

1952年生れの私は、

普通のサラリーマンなら定年を迎え、

悠々自適をやっている年齢です。

けれどもなぜか、毎日元気に出勤し、

朝から晩まで働きます。

それで特に疲れることもないし、

体のどこかに痛いところや動かし

にくいところもありません。

薬は、風邪をひいた時などに

飲むだけで、ふだんは薬も

サプリメントさえ不要です。

ご飯は美味しく、睡眠は満足。

マッサージ屋さんで健康法の講師で、

 

こんな人生を歩むとはつゆほども

予測しませんでした。




chapter 1   運動オンチな子供

私は、人生の初期段階で、

「運動」という生活習慣を

セットアップしていなかったと

思います。

でも、当時は「スポーツ」

などというこじゃれたことは、

特に考えずに人は育ったのだと

思います。

 

ふつうに「ゴムとび」とか

「木登り」とか、

「だるまさんころんだ」とか

 そういう遊びはしましたが、

「走る」とかはしませんでした。

ですから駆けっこは苦手でした。

では、走るのが速い子は、

練習をしていたのかというと、

別にしていなかったと思います。

「歩き」にしても

「姿勢」にしても。

ウチはそれほど厳しい家では

なかったので、

ただなんとなく育った結果、

運動オンチでした。

運動会は台風が直撃すればいい

と思っていました。

ドッジボールでは標的でした。

体が大きくて動きのノロい

女の子でしたから。

そのせいか、いまでも球技は

一切ダメです。

標的にされたトラウマではないか

と思っています。

 


chapter 2    病気になったら薬

私は、ちゃんと家族に愛されて

育ったと思います。

特に母は末っ子の私を

溺愛しました。

その母の考え方が、

「病気になったら病院に行く。

病気は薬で治す」だったので、

私もそう思っていました。

小学校5年生くらいで 

身長がグングン伸びたので、

今思えば成長痛だったのでしょう

が、あちこち痛くて、その都度、

母は私を連れて病院めぐりを

したのでした。

あの頃のお医者さんは、

成長痛という概念が

なかったのか、

骨の病気を疑われたり、

結核性の脊椎カリエスまで

疑われ、

結局なんだかわからないけど

神経痛ということで

(小学生が?)、

アリナミンの静脈注射を

さんざん打たれました。

やがて大人になって、

ひとり暮らしになると、

楽しいこともたくさんあって、

あまり病気はしなくなりました。

いちいち病院に行ったり

薬を買ったりするのが

めんどくさかったのもあります。

 




chapter 3   36歳でダウン

けっこうバリバリ仕事をして、

いっぱし企業戦士を

きどっていたのですが、

健康に関する知識も意識もなく、

むやみに仕事をして夜遅くまで

遊び歩き、お酒を飲み、

徹夜もし、運動はほとんどせず、

「鉄の胃袋」「鋼の肝臓」なんて

うそぶいていた、

バカな女でした。

でも、36歳でやっと、

体がコワレモノだということに

気づきます。

ある時高熱が出て、

どうしても下がらず、

咳と血尿まで出て、

ついに、当時住んでいた

大田区西馬込の町医者に

駆け込みます。

そこで、初老の男のお医者さんと

出会ったことで、

私の人生が変わり始めます。

とりあえず診断は、腎盂腎炎、

気管支炎、栄養失調(!)

お医者さんはいいました。

「なんで熱が出ているか

 知ってる?」

「は?」

 

 

 

 


chapter 4   なぜ熱が出るのか?

目からうろこが落ちました。

そして、自分の、

あまりの無知に愕然とし、

恥ずかしくなりました。

大好きな母があんなに一生懸命

育ててくれた体なのに、

粗末にしてしまったと

思いました。

「なぜ熱が出るのか知ってる?」

「は?」

熱が出たら、

熱いお湯をたくさん飲んで、

温かくして寝て、

汗をたくさんかけば下がる、

ということは知っていましたが

(このときはそれをやってもダメ

だったので医者にかけこんだ)、

なぜ熱が出るかと

言われても・・・。

「今、体がばい菌と一生懸命

闘ってるんだよ。

そのために必要なのは

栄養と酸素がいっぱい詰まった

血液だ。その血液をたくさん

まわすために、熱を上げ、

心臓をバクバク言わせている。

体が自分を守るために

戦争をする、

そのためには熱が必要なんだ。

戦争をしている間は、

よけいなことをしてはいけない。

まず、2週間仕事を休みなさい。

それから、

栄養のある食事をとる。

自分で作れるかな?

できないなら入院しなさい」

「できます」

「よろしい。2週間休めるね。

  でないと責任持てないよ」

 




CHAPTER 5  からださん、ごめんなさい

からださん、ごめんなさい。

目からうろこが落ちました。

そして自分の、

あまりの無知に愕然とし、

恥ずかしくなりました。

大好きな母があんなに一生懸命

育ててくれた体なのに、

粗末にしてしまったと

思いました。

私はほんとうに2週間休みをとり、

アパートでこんこんと

眠りました。

そして、復活しました。

でも、私が復活すると

同時くらいに父が肺炎で入院

したとの知らせがあり、

「休んだついでだ」と、

そのまま休暇を延長して

実家に帰り、

父の看病をすることになります。

父はたんの吸引が必要なので、

母と、姉と、私の3人で

24時間のつきそいローテーション

を組みました。

私は病み上がりなので、

肉体的にはきつかったのですが、

こんなときでないと、

たぶん仕事を休めなかったと

思います。

40日の入院で父は亡くなり、

私は死にゆく父のそばで、

人間の命やからだ、

死のことを考えました。


chapter 6   私は幸せにならなければ いけない

父の人生のことも考えました。

いろいろ反発したことも

ありましたが、

私をこの世に作りだし、

育ててくれた。

不器用ではあっても、

私を可愛がってくれたことは

確かです。

そういえば、父は一度も私に

「結婚しろ」といわなかった。

もうその時私は36歳でしたが、

初めて、結婚してちゃんと

幸福な人生を歩まなければ

いけない、と思いました。

それは、

父が死んだからではなく、

父が大切に育ててくれた体を、

自分が大切にするため。

父が与えてくれた人生を

自分が大切にするためです。

そう思うと、

そういう人が現れるもので、

やがて私は、

仕事場という戦場をあとにし、

はるか遠い鹿児島の地で、

専業主婦の生活を始めることに

なります。

正直言って、私は、

自分のからだと心のコントロール

が下手で、

もう、 

へとへとでした。




CHAPTER 7  夫は健康器具屋さん

夫は、足をマッサージするための

ローラー式の健康器具を販売する

会社の支店長でした。

つまりコロコロのローラーで

足ツボを刺激し、健康になる

というものです。

その理論的裏付けが、

「若石(じゃくせき)健康法」

という、やがて私も深くかかわる

ことになる、健康法でした。

自宅にはそれ関係の本も

いろいろあり、

もちろんローラーそのものも

ありましたので、私はせっせと

足を揉んでいました。

反射区も全てこの頃に覚え、

身体のしくみにも興味を持って

勉強するようになりました。

このあたりが、

私とリフレクソロジー

(足の健康法)との出会いです。

 

平成になったばかりの頃でした。


CHAPTER 8 結婚の条件

結婚するにあたって、

夫が提示した条件は、

「お金を稼いではいけない」

「車を運転してはいけない」

でした。

どちらもノープロブレムでした。

お金を稼ぐなといっても、

特別お金持ちというわけでは

なく、普通のサラリーマンです。

贅沢をせずに、あり余る時間を

たのしく暮らすには、

どうすればいいかというと、

「お金はかからないけど、

お金にならない」

趣味を持つこと。

つまり、「お勉強」が一番

ということです。

私がまず選んだのが、短歌。

歌会の参加費が少しかかるだけ

で、紙と鉛筆があればOKです。

上手になって、賞をとっても、

まず間違いなくお金には

なりません。

幸い私は良い先生に出会い、

日本語の基礎の基礎から

ここで勉強しました。

源氏物語54帖を原文で読んだのも 

この時期です。




CHAPTER 9  減量人体実験

40歳を過ぎた頃、

中年太りが始まりました。

私は身長が170cmあり、

58㎏~60㎏ぐらいがベストコンデ

ィションだったのですが、

たぶん最盛期には70㎏ぐらいまで

行ったと思います。

ある夏の日、

お気に入りのワンピースが

入らなくなり、

さすがに危機感を覚え、

一念発起。

近くのスポーツクラブに

通い始めます。

最初に、アンケートを記入します。

入会の目的のところに、

「減量」も書いたとは思いますが、

「強くなりたい」と書いた記憶があります。

なんだか、中途半端な自分に

嫌気がさしていたんだと思います。

トレーナーと相談しながら、

運動・食事そして

体のケアとして足揉みも

メニュー化しました。

ただ減量すればいいというのでは

なく、安全に健康にしかも楽しく

減量する方法を、自分の体で

実験しようと思ったのです。

最初の1か月は、緩みきった体を

運動に慣れさせる期間で、

1グラムもやせません。

2か月目から順調にやせ始め、

1か月に2㎏ずつ、6か月で12㎏の

減量に成功しました。

しかも、定期的に体組成の検査を

受け、筋肉は1gも減らさずに

脂肪のみ12㎏減らしたのです。

 


CHAPTER 10  運動はきもちいい

減量目的で始めた

運動でしたが、それがなぜ継続

できたかというと、

減量が目的では

なくなったからです。

だいたい5kg減量した頃から、

体のキレが全く変わります。

ここが、食事だけのダイエット

との違いです。

筋肉を減らさず、むしろ強化して

5kg減量は、身体感覚の大変革と

いってもいいです。

当初の目的が減量だったので、

私はエアロビクス系の

スタジオレッスンを熱心に

利用していました。

ハイテンポな音楽に合わせて、

体を動かすのは、

慣れてくると独特の

陶酔感があります。

体が軽くなり、相対的に心肺能力

も上がりますから、

初期のころのノタノタした「私」

が、かなりカッコイイ「私」

として鏡の中で

躍動しているのを見て、

「なぁんだ、ワタシ意外と

運動できるじゃん」

という気持ちになります。

この時点で、

「運動は気持ちいい」

ことに気づき、

目的は減量から

運動そのものになったのです。

あのころ、

エアロビクスのインストラクター

の資格を取ろうかと思ったことも

あります。

すでに40代でしたから、パワーは

若い人と比べようもないけど、

中高年向けの体操指導なんかは

可能性あるかもね、

なんて考えました。

資格は取りませんでしたが、

まさに今その通りになっています。




CHAPTER 11  私は健康になってしまった

かくして、40代前半の私は、

長い髪をショートカットにし、

ジーパンを2度も買いなおし、

ダンス仲間と連を組んで

「浅草サンバカーニバル」で

踊ったりしました。

そこには、かつて仕事で

へとへとに疲れ果て、

専業主婦に逃げ込んだ

私はいませんでした。

鹿児島で始まった結婚生活

でしたが、4年後に

夫の転勤で千葉市にうつり、

スポーツクラブは港のそばに

ありました。

そこに週34回通いました。

10時前に入って、

スタジオレッスンを午前と午後に

1本ずつ、合間に筋トレと5㎞走、

そして夕方お風呂に入って帰る。

もちろん友達もいっぱいできて、

これで健康にならない

わけがない。

ある日、

スポーツクラブのショップで、

派手なウエアを物色しながら、

ふとガラスの向こうの

海を見ると、

午後の光の中を一隻の真っ白な

クルーザーがこちらに向かって

駆け込んでくるのが見えました。

そのとき、頭にひらめいた言葉は

「夢はかなう」

でした。

その夢が何なのかも

わからないのに。

つまり、「根拠のない自信」

がこれです。

筋肉に裏付けられた

健康がもたらすものは、

「根拠のない自信」。

 

良いか悪いかは、わかりません。


CHAPTER 12  体が変わると心も変わる

結婚したときすでに30代後半で、

子どもをつくるにはぎりぎりの

年齢でした。

夫は再婚で、すでに独立した

子どもがいましたから、

私が子どもを産むかどうかは、

私がどうしたいかの問題でした。

本音を言えば、

私はそれほど子どもが好きでは

ありませんでした。

でも、一面では、

子どもを残さずに死んでしまう

ことに、抵抗もありました。

先祖から営々と引き継がれた

命のリレーを私のところで

プツリと切ってしまうことの

罪悪感。

そして、

ほとんどの女性が出産子育てに

よって与えられる大きな幸福と

大きな試練と人間的な成長を

私は享受できないことの欠落感。

そんなことをうつうつと詠んだ

短歌もありました。

でも、人間というものは、

体が健康になると、

そんなことは大したことじゃない

と思えてしまうのです。

子どものことだけではなく、

他のいろいろなことも、

バカみたいに肯定的に

考えるようになります。

「私に与えられた

  人生のミッションは、

  もっと別のところにある」

とか。

夫がたまに

「子どもを育てたことも

ないくせに」

などモラハラまがいのことを言っても、

「私を責めるなら、私の努力で

解決できる問題にしてください」

と切り返せるようになりました。

健康は、私が本来持っていた特質

を、取り戻してくれたようです。




CHAPTER 13  そして思想まで変わってしまう

健康になった私は考えました。

「このまま籠の鳥で

  終わっていいのか」

“貧しいときも病める時も”

といいますが、

私にはそれでも不満を言わずに

夫について行く自信は

ありませんでした。

人生は何があるかわかりません。

夫の会社が倒産することだって

あるかもしれません

(後日その通りになりました)。

それでもうまく次の収入源を確保できるかどうかもわかりません(後日その通りになりました)。

そのときに、専業主婦の私は

きっと言います。

「どうしてくれんのよ!」

「あなたのおかげで私はこんなに

  不幸になった」

「私の人生返してよ!」

このまま行ったら、

私はきっとそういう

卑劣な女になるだろう、と、

確信を持ったのです。

「自分の人生には自分で責任を

  持たなければいけない」

そう思いました。

「わたしはちゃんと結婚して幸福

  にならなければいけない」

と思ってから、

まだ10年もたっていないのに。

つまり、健康状態が、人生観を

大きく変えます。

思想(というほどのものかどうか

はわからないけど)まで

変えます。

 

 


CHAPTER 14  壁は、人を強くします

経済的自立が、

私のテーマになりました。

でも、夫は頑として許しません。

それはそうです。

「お金を稼がない」

「車を運転しない」というのが

結婚の条件なんですから。

この二つの条件は、つまり、

夫が私の本性を見抜いたうえで

出したものでした。

健康になったら、

それがはっきりわかりました。

私は

そういう女なんだということを。

だからといって、あきらめるわけ

にはいきませんでした。

あの手この手で

説得にかかります。

「家事のスキルを磨くために

  家政婦の仕事をやってみよう

  かしら?」

「ダメだ。そんな生半可な気持ち

  で勤まる仕事はない」

というように。

でも私は確信していたのです。

「夢はかなう」

そうしているうちに、

夫が東京の本社に転勤になり、

社員教育を担当することに

なります。

ある日、社員教育プログラムの

骨組みとおぼしき大きな表を

持って帰ります。

これに肉付けをして、

社員教育のマニュアルを

つくれということらしい。

夫は営業畑で、事務能力は

ほぼゼロです。

社員教育の実績はあるけれど、

それを理論づけ、

マニュアルを構築するなど、 

無理。




CHAPTER 15  「東さん、 奥さんと3人で」

直感的に

「チャンスだ」

と思いました。

社員教育マニュアルで

困り果てている夫に、

「私がお手伝いしましょうか?」

私はかつて営業会社で

社員教育の仕事を

やっていたのです。

鹿児島で文章修業もしました。

ワープロ(そのころはパソコンで

はなくワープロでした)も持って

いて、機関銃のように打てます。

まさに私のための仕事でした。

私が打った原稿を持っていくと、

上層部はびっくりしたようです。

夫はほめられ鼻高々で、

私は毎日コツコツとマニュアル

作りをしました。

できた端から

夫は会社に持っていきます。

このへんまるで「鶴の恩返し」。

夫は株を上げましたが、

でもやっぱり

「東さんの奥さんがやってるんじ

  ゃないの?」

というウワサは広がります。

そしてある日、社長直々、

「東さん、奥さんと3人で食事でもどう?」

その席で、頼まれたのは、

・美脚サロンを展開したいので、

技術その他体験市場調査をして

レポートしてほしい。

・当面顧問扱いで、週1回社長室に

レポートを届けに来ればいい。

そして破格の報酬を提示され、

夫は、(かわいそうに) 

断れませんでした。


CHAPTER 16  サイドブレーキ解除する朝

1回目のレポートを社長室に届ける

朝、私は、いよいよ「もう一つの

人生」が始まると思いました。

 

ひかりつつ

春は来にけり

ひそやかに

サイドブレーキ

解除する朝

 

その14年後、60歳の誕生日の

ブログに、

この朝のことや前後のいきさつが

書いてあります。

 

 

あまりはしゃぐと、

せっかく棚から落ちてきた

ボタモチを、

受け止めそこなって床に落とし、

あわてたはずみで踏んづけて

しまうのではないか。

そんな気がして、

とにかく静かに静かに、

それまで封印していた

私の人生のサイドブレーキを、

音がしないように 

解除したのでした。




CHAPTER 17  台湾

期待され、

際限なく頑張れといわれ続けて、

仕事をする意味を見失い、

なんのための頑張りなのか、

何を目指しているのか、

わからなくなり、

やがて疲れ果ててしまった30代。

そんな生活から一旦離れ、

頑張ってはいけない、

稼いではいけないという

7年間ののちに、

特に期待されているわけでも、

頑張れといわれているわけでも

ない状態で改めて発進したのが

46歳の春。

するとものごとは、

音を立てて動き出します。

たくさんのレポートを提出し、

1か月後には札幌に美脚サロン

1号店出店が決まります。

夏にはそこで働く10人ほどの若い

女性スタッフを雇用し、

その研修のために私が台湾で

リフレクソロジーを習得してくる

ことになりました。

社命による研修ですので、

台湾に出発する直前、

社長との食事会があり、

私はそこで大胆にも

リフレクソロジーのプロ養成学院

構想を社長に提案しました。

すると、台湾での研修中に

国際電話があり、社長から直接、

「東さん、学院、やるからね」

と連絡がありました。

秋の台北で、私は、一心不乱に

勉強しました。

講義は中国語で、日本人の通訳が入ります。

それを全てテープに録音し、

ノートをとります。

さらに夜ホテルに帰ってから

毎夜12時までテープを聴きながら

ノート整理をします。

私にははっきりと

野心がありました。

このクラスを首席で卒業し、

新しくできる学院で、 

良いポストに就くことでした。


CHAPTER 18  ピンチは全てチャンスだった

私は新しくできた、プロ養成学院

の学院長に就任しました。

サイドブレーキを解除して

1年後のことでした。

そこで、たくさんの出会いも

学びもあり、

失敗も成功もありました。

後で思えばイジメだったのかなぁ

という出来事も、

平然と通り過ぎました。

若くてトンガってぎらぎらして

いたと思います。

たくさんの勉強をしました。

今講師業をやっているのも

そのときの経験が

基礎になっています。

身体のしくみや、施術の技術も、

周囲にたくさんの優秀なスタッフ

がいたので、どんどん教えてもら

いました。

学院長というポジションでありな

がら、ちゃっかり「受講生」を

やっていたのです。

高い給料をもらいながら。

でも、学院は健康器具会社の一部

であり、その本体の経営が

思わしくないことがわかります。

こういう状況を、

普通はピンチといいます。

何しろ夫婦でこの会社のお世話に

なっているので。

でも、私は内心「チャンス!」

と思いました。

私はフリーの健康法指導者に

なればいいのです。

ノウハウはこの体・この脳みそ

の中にたんまり蓄えてあります。

そのためには

オリジナルのテキストが必要。

そのためには

パソコンの技術が必要。

そのためには

中高年の失業者のための職業訓練

システムを使えばいい!

会社が倒産したために解雇された

中高年は優遇されることを、

私はよく知っていました。

 

 




CHAPTER 19  自分の健康は自分で守る

私はただ要領よく世渡りをしたの

ではありません。

「天職」と出会ったのだと

思います。

学院がスタートしたのが1999年。

翌年は、介護保険がスタートした

年です。

あの頃、多くの女性たちが

新しい職業として「介護」を

目指していました。

介護はフロンティアでした。

介護関連の資格取得をめざす

知的な女性たちが、サイドスキル

としてリフレクソロジーを

学びに来たのです。

その女性たちに私は言いました。

「介護は大切な仕事です。

 それで皆さんご自身は

 介護されたいですか?

 そうではないはずです。

 医療もそうです。

 日本の国民医療費が30兆円

1999年当時)。

 すごい勢いで増えています。

 それに介護保険が

 上乗せされます。

 日本は近い将来、

 医療と介護で破たんします。

ではどうすればいいか。

 自分の健康を自分で守れる人を

 増やすこと。

 そして健康な時間を伸ばすこと。

 そのための方法を教えるひとが

 必要です。

 私は、みなさんに、単なる足揉み

 職人になって欲しいわけではあり

 ません。

 健康な人を増やすための指導者に

なっていただきたいのです」

あれから20年。

あの時私が言った

日本が医療と介護で破たんする

「近い将来」は、「今」です。

健康保険税、介護保険税では

とうていまかなえず、

税金を湯水のごとくつぎ込んで 

いるのが実情です。


CHAPTER 20  「お金のため」には限界がある

お金が大好きでお金のために頑張

る人もいるでしょうが、

私にはそれはできないようです。

30代でダウンしたとき、

営業会社でしたから、

頑張って結果を出せば確実に

お金になりました。

でも「何のために頑張るのか」

わからなくなったのが、

今思えばダウンの原因だったかも

しれません。

心と体が「イヤ」だったのです。

ダウンしたからこそあの町医者に

出会い、自分の無知を知らされ、

そして父の死を看取りながら

生きること死ぬこと、

体のことを考えました。

私はその後、

51歳で離婚しましたが、

夫のおかげで豊かな時間と

健康な体を手に入れ、

さらに仕事のチャンスまで

手にすることができました。

その仕事の中で私は、

「天職」にめぐりあいました。

長い長い道のりでしたが、

私は幸運だったと思います。

離婚のいきさつなどは

ここには書きません。

人が生きていくことは必ずしも

明るい光に満ちたことばかりでは

ありません。

自慢できないこと、

むしろ恥ずかしい影の部分も

あります。

そういうものすべて踏まえた

うえでの、今の立ち位置です。

 

「自分の健康は自分で守る」

 

このシンプルな一言を

心から理解し、

実践し、

人に伝える。

それが私の天職であり、

それをビジネスにしたのが 

今の仕事です。




CHAPTER 21  やりたいことは自分のお金で

今は、あちこちで

「起業塾」[創業塾」

のようなものがあります。

そのカリキュラムの中には

資金のつくり方もあって、

例えば労金の人が来て

お金の借り方を教えたりします。

そういう起業もあるでしょうが、

私はむかし勤務していた会社の

社長の一言が忘れられません。

当時若くて浅はかだった私は、

「どこかのお金持ちがスポンサー

になってくれたらいいなぁ」

などと考えがちでした。

そういう考えをたしなめて、

社長はいいました。

「あのさ、本当にやりたいことは

 自分のお金でやりなよ」

なるほど、と思いました。

55歳で今のお店

「施術室優しい手」を

つくるときも、以後も、

いつも「今あるお金で」

やって来ました。

多くの人の健康のお役にたちたい

という意味で、

NPO法人を設立しましたが、

未だに一円の補助金も

もらっていません。

借金もありません。

ですから大きな仕事は

できませんが、

最も大切な

「私自身の健康」のために

無借金経営は良いようです。

私の仕事は

私自身が健康でないと、

説得力を持たないのです。

そして、仕事をすればするほど

私が真っ先に健康になります。

そんな仕事もあることを

知っていただくために

作ったのが、 

このサイトなんです。